MONOLOGUE

「口伝」に、惹かれて

立夏を過ぎ、いっそう空は青く、光の季節が満ちてきたのを感じます。

いつもの散歩道を行くと、風が木の葉が揺らす音がさらさらと心地いい。

薄手のシャツ一枚でちょうどよく過ごすことができる、この季節がとても好きです。

皆様、いかがお過ごしでしょうか?


さてさて、今日は一冊の本を紹介させてくださいね。

それは1年ほど前に求めたものでしたが、すぐに開くことなく本棚に眠ったままになっていました。

手元に置いておきたい本。
きっと大事なことが書いてある。

そう思って購入したものの、なんとなく今じゃないような気がして、開かずにいたのです。

先日不意に思い出したので、何となく手に取り読み始めてみたら、すごかった!

すごかったんです。


それは、東北の民話(昔話)を集めた本、です。

小野和子さんという著者が、50年にもわたって東北の村々へ民話を求めて訪ね歩いた実録。

あいたくて ききたくて 旅にでる

小野さんは昭和9年生まれ、私の祖母と同い年です。東北のお生まれではないそうですが、ご主人のお仕事の都合で宮城県に移り住み、東北の村々の民話を聴いて巡るという活動をなさっていました。

民話とはまさに「民の話」

むかーし むかし・・・、ではじまる昔話を、皆さんもいくつかはご記憶されているのではないでしょうか。


私は「民話を集めて回る」という行動にまずは驚かされました。

小野さんのやり方は、実にシンプルです。

訪問する集落を選ぶ
 ↓
歩きながら戸を開けてくれそうな
家を選んでノックする
 ↓
子どもの頃聞いた「昔語」で
覚えているものがあったら教えてください、
と切り出す。
 ↓
運が良ければ語ってもらえることもあるし
訝しがられて語ってもらえないこともある。


東北の民話は聞けば聞くほど彼女を惹きつけてやまない何かがあったそうで、この活動が何になるか分からなかったけれど、駆られるように採訪し続け、気がつけば50年以上が経っていた、といいます。


本の中には、かつての東北の農村の姿がありありと描かれています。

寒冷地で農作物が取れない年も多く、女性も子どもも一家総出で生きるために働いたといいます。昼間は農作業、夜は夜なべ仕事。作業を手伝う子どもらが飽きないように、女たちは空いている口も動かして昔語をする・・・

まさに、そんな暮らしに横たわるように語られてきたのが「民話」なのだそう。

当時は親戚も含めた大家族で暮らす家も多かったようですが、身内の声で語られる昔話には、きっと暮らしぶりや価値観、歴史や信仰や願いみたいなものが、色濃く溶けていたんじゃないかしら・・・と想像させられます。

本の中に納められていたいくつかの民話も読みましたが、明らかにフィクションであるはずの「お化け話」も、もはやノンフィクションかのように思えてくる。

次第に、昔のことなのか・今のことなのかも分からなくなるような・・・非常に境界線が曖昧で、だからなのか妙なリアリティを感じました。

もしかしたら、私自身が岩手の出身で、祖父母から伝え聞いたものとどこか重なるものがあるから余計に感情移入したのかもしれませんが、単なる「郷愁」とも違うような気がしました。


この本を通じて私は改めて「口伝のもの」に深い興味を抱かずにはいられませんでした。

脚本や台本、元本があるわけではない。活字で残っていないものが人の記憶の中には存在して、人を媒介して継がれていく世界。

時代や語り手によって、もしかしたらニュアンスは少しずつ変わっているのかもしれない。けれどもその根っこにあるものを聴き手側が感じながら聴き、いつの日かその人のなかで熟成したときに「聴き手」が「語り手」へと変わっていく。

「ほんとうのこと」というのは、そうやって残っていくのではないか、なんて思いました。

もちろん活字になっているもの、判を押されて世に残されたものもすばらしいと思います。まとめる側の並々ならない尽力もあって、文化というものが形成されていることでしょう。

けれども公にはならなかった民の話が無数に存在しているということに、改めて気付かされたというのでしょうか。

そして案外「ほんとうのこと」は、そういう本筋からこぼれた話のなかにこそ、ありそうな気もするのです。


私が一冊の本からここまでの思案の旅をできたのは、書き手である小野さんの民話の語り手に対する敬意と謙虚な姿勢があったからだと思います。

根気強く言葉がでてくるのを待って、ようやく語ってもらった昔話を本気で聴いて、できるだけそのまま表現する。

その一貫した姿勢が、語りの臨場感を伝えてくるというのか・・・

脚色や余計な作意を一切感じないのは、それだけ語り手や語ってもらった場に対して真摯だったということなのではないでしょうか。

私は文章における自分(我)の置き方を、本を通して示してもらったように思います。

私の言葉の探求は「文章」「書き言葉」から、外へはみ出し始めたように思っています。

口伝のもの
音になって伝わるもの
文字のかたちで伝わるもの

この探求は果たしてどこにいくのかわからないけれど、結局のところいつも言葉の周りで行ったり来たりしている、そういうところに身をおいていたいのだろうなと、自分で自分を眺めています。