MONOLOGUE

母10年目に寄せて

紫陽花もあっという間に見頃を過ぎ、夏の気配が感じられるようになりました。

今年初めての蝉の声を聞いたのは、5日ほど前のことだったでしょうか。近頃は6月から鳴き始めるのですね!

夏の訪れを告げる蝉の声はどこか遠慮がちで、しばし立ち止まり耳を傾けました。

本格的な夏がやってきますね。


先日、上の息子が10歳の誕生日を迎えました。
私たち夫婦も、父になり・母になり10年。

あっという間なようでいて、えっ?まだ?と感じなくもない。

共に過ごしてきた時を思いながら、誕生日は「いつもの日」を過ごしました。

非日常に出向くのではなく、ただ一緒に「いつもの日」をする。そういう誕生日を過ごすことができるのも、これから先そう多くはないのかもしれません。


10年前、私は里帰り出産のため岩手花巻に帰らせてもらって、息子が生まれたくなるのをゆるゆると待っていました。

別の生き物が、このお腹に住んでいる。

あの感覚はもう味わえるものではないけれど、思い返してみるととても贅沢な時間でした。

花巻の自然のなかに身を置いたせいもあるのでしょうが、感覚がどこか冴え渡っているようで、五感を通してそれまで気にも留まらなかったものが入ってくる。

梅雨時期の雨がつくる水の波紋
家の前の林に立ち込める土や植物の匂い
風にはためく洗濯物

それらを捉えていたのは私の感覚だったのか、息子の感覚だったのか?

今となってはわかりません。


子どもを育てるということ

それによって見せられているものの偉大さを改めて思います。

彼の成長に寄り添う中で味わってきた感情は、簡単に言葉で規定しえしまえるようなものではありませんが、

彼と暮らし始めたことによって私は「生きている」という言葉が実感できるようになりました。

もちろんそれまでも「生きていた」、けれどもそれはとても自分本位で、ゆえに実感することさえ少なかったように思うのです。

「生きている」そんなの当たり前でしょ、と・・・

けれども、赤ん坊が少年になる、その過程を見させてもらうことによって、少しずつそれが変わってきました。

人が動物としてもともと持ち合わせていた

優しさ
切なさ
儚さ
強さ
穏やかさ
愚かさ

それらを無垢に出してくる彼に濃密に触れるうちに、私自身もいつの間にか手放してしまっていた大切な感覚を取り戻していったような気がします。

自分の半生を追体験するようなことも増えてきて、忘れかけていた家族や恩師、友とのエピソードを折に触れて思い出すことも増えました。

そしてそれらが重なっていくうちに

「生きている」というよりもむしろ
「生かされていたんだ」と気づき始めた。

自ずと、今に感謝が湧いてくるようになりました。

10年前、産院で悶絶していた私は、こんな日がくることを全く想像することができませんでした。

同じように10年後、20歳になった息子を今の私はうまく想像できません。

けれども、それでいいのでしょう。

これだけ変化の大きい時代ですから、不安がないといったら嘘になりますが、どちらにしても私にできることはきっとそう多くはありません。

毎日帰ってくる場所を整えて、笑顔で迎える。
豪華ではないけれどあたたかいご飯を用意する。

よく食べ、よく寝て、よく見て、よく聴く。

それができていれば、大抵のことは大丈夫そうな気もします笑

たまたまこうして我が家にやってきた息子、愛おしいという感情を教えてくれた彼とともに、また日々を歩んでいこうと思います。

10歳おめでとう!
これからもきっとすばらしい人生になるね。

そして、息子の10年を見守ってくださった家族や親戚、子育てを支えてくださった方々、そして夫に、心から感謝しています。ありがとうございます。