MONOLOGUE

ありがとう、しか言葉にならない。

久しぶりのコラム執筆になってしまいました。

ずっと週1回のペースでお届けしてきたのですが、今月はそれができず、、、

昨日くらいからようやく落ち着き、またこうしてこの場で言葉をお届けできることに安堵している私がいます。

と、申しますのも、実は母方の祖母が急逝し、2年ぶりに岩手花巻に帰省しておりました。

ずっとずっと、帰りたくてたまらなかった場所に帰る。祖母にきっかけをつくってもらって、懐かしいあの地に足を運びました。

祖母は90歳でしたが元気な人で、ほんの1ヶ月前まで地域の仲間と旅行に出かけるほどだったそうです。

倒れてからたったの6日で逝ってしまいました。

その報を聞いてから、すぐに帰ることもできたはずなのに、なぜだかね、私。

判断にまごついてしまって。

家のこと、
コロナのこと、
関東圏への地元の目線、
揺らぐ自分、

いろいろなことに整理がつかず、もたもたしているうちに間に合わなかったんです。

自分のふがいなさを感じながら、だけど心のどこかであの地の空気を吸えることに安堵したような気持ちも感じながら帰省しました。

葬儀に参列し、久しぶりに親族とも顔をあわせましたが、

もうね、こんなにもあたたかいお葬式があるのか、と思うほどの、祖母の人柄そのままの雰囲気でした。

みんなが、泣きながら笑っていました。

コロナ前までは必ずお盆・お正月には祖母の家に出向き、集まった親族一同で挨拶を交わし宴会に興じることが常だったのですが、その宴を整えてくれていたのが祖母でした。

子供もいれたら30人近い親族を迎え、一人一人に明るく声をかけ、お酒とお料理でもてなしてくれる、あの雰囲気が思い出されるようでした。

お葬式明けの会食では、祖母のつけた漬物が振る舞われましてね。

生前、3樽もつけていたという沢庵や、芭蕉菜に白菜も。寒い中収穫し、洗い、漬けたというそのお味はとても優しいものでした。

自分のお葬式に訪れた人を自分で漬けたお漬物でもてなすなんて。

祖母の生き様をそのまま見たような気がしました。

母方の家はですね、鍛冶屋の家系だったそうなんです。

曽祖父の時代は刀、祖父から時代から生活道具をつくるようになり東京に行商に出向いていたのだとか。

言うまでもなく曽祖父も祖父も、職人気質のとても厳しい人で、祖母はそのなかで家を守ってきた人。

幼い頃から祖母の家に行くと、明るくて、あたたかくて、おだやかな空気を感じていたのですが、それは間違いなく祖母つくりだした空気だったと思います。

家族、親族の緩衝材となり、みんなが穏やかに暮らせるように取りはからってくれていたのでしょうね。

お葬式を終えて帰るときのこと。

真っ白に雪が積もった早池峰山に、夕焼けが反射して茜色に輝いていました。その上に満月が浮かび、横には流れるような雲がたなびいていました。

もう、天晴としかいいようのない、とても神々しい景色を親族全員で見ました。

地元でもその光景はめったに見られないものなのだそうで、

祖母が天から、

「ありがとうね」
「大丈夫だよ」

と笑っているように見えました。

祖母はその生涯を全うしたけれど、私の中に確かに祖母が息づいているとして、

私がつくる場も、祖母のそれのような明るく穏やかな笑顔のある、あたたかいものでありたいと痛烈に思いました。

いつ、どのタイミングで私の元を訪れていただいても、

よく来たね、と笑顔で迎え
また来てね、と送り出せる場をつくり続けたい。

それは、仕事においても家庭においても変わらず、愛のある場所でありたいです。

無事に初七日を終えた今、ようやく気持ちの整理もつき、前に進めるな、と感じています。

目の前にきたもの、
目の前にいる人を大切に、
自分にできる最大限を尽くす。

また一歩ずつ、歩んでいこうと思います。

仕事のことも、日々のつれづれからの思案も。12月は心動かされることがたくさんあり、言葉にしたいことも玉突いていますので笑

またここから丁寧に、紡いでいきたいなと思います。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。