MONOLOGUE
2024年11月26日
手紙が運んでくれるもの
秋も深まり、赤や黄色に染まりゆく街が美しい今日この頃です。
散歩に出ると足元がカサコソとにぎやかで、愛犬とふたり、わざと吹き溜まりになっているところを歩いて今だけの感触を楽しんでいます。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
さて、今日も少し近況を、
とはいっても書いてから少し時間が経ってしまっているので少し前の近況にはなりますが、日々のことを綴らせてくださいね。
夏の終わり頃のこと。
ロンドンに暮らす友人に手紙を書きました。
夏休みを終えて、子どもたちが学校へと通い始めたその日、ふと思い立って筆をとったのです。
記念日でもない日に手紙をしたためる。
一筆箋ではなく便箋に書く。
それはずいぶん久しぶりのことでした。
友人とは出会って7年になりますが、家族以外で一番近くにいた人、といっても過言ではないかもしれないくらい親しい間柄です。
出産して仕事や暮らしへの価値観が変わり、伴って歩む道も変化してきた私たち。そういう流れを互いに見てきたような・・・
その彼女が渡英したのは、今年の6月末のことでした。最後に会ったとき「手紙をかくよ」と言って別れましたが、正直なところタイミングをつかめず時が流れてしまっていました。
手紙ってきっと、どこかでふっと空白の時間ができたときに、書きたくなる「時」が訪れるんですよね。
その日の私も、まさにそうでした。
子どもたちが登校して、打ち合わせも特になく、静かな一日になりそう。さて何をしようかと思った時に、彼女の顔が浮かびました。
書き始めると言葉はさらさらと湧いてきました。
日本の季節のこと
家族の近況
最近の気づきや興味をもっていることなど
彼女が渡英してからもそれなりにメッセージのやりとりはしていました。けれども手紙に書いたのは、そこでも敢えて話題にしないくらいのさもないこと。
たわいのない話を、わざわざ書く。このギャップが妙に嬉しく感じられました。
書いている間、不思議な感覚がありました。
彼女がそこにいて「うんうん、それで?」と聞いてくれている、存在感が感じられるというのか・・
あぁ、手紙ってこういうものだと改めて思いました。
そこにいて誰かを思い、そのまんま言葉にする。書くという行為を通じて、その人と一緒に過ごしているような。何を書くか、どう書くかは、あまり重要ではないのかもしれない。
とても穏やかなひとときに思わずため息がこぼれました。
「あぁ、今だったんだな」
実は彼女の渡英は淋しさも大きく、口をひらいたら湿っぽくなりそうだったので、この夏はできるだけ静かに過ごしていました。
けれども手紙を書いてみて、ようやくこの環境に慣れたというのか、あぁ、次にいくんだなと腑に落ちた気がしました。
2週間後、彼女からのハガキが届きました。
いかにもロンドンらしいハガキ、表面の文字が書けるところには、流れるような文字がびっしりと並んでいます。
日々の暮らしぶりを綴った内容には、大きなニュースがあるわけではありません。私が綴ったのと同じように、たわいのないこと。
けれども受け取ったとき、妙に生身というのか、彼女がふっと遊びに来たかのようなリアリティがありました。直筆の文字だからでしょうか。
パンとコーヒーを片手に広い公園を散策しているという彼女の姿がありありと目に浮かびます。
何度か繰り返し読み味わい、最後にハガキに添えられていた日付とサインにふと目が止まりました。
「2024 / 8 / 26」
「2024 / 8 / 26」???
それは、私が手紙を書いて投函したあの日のことです。そう、このハガキはお返事ではなく、偶然同時に書いていたものだったのです。
示し合わせたかのように、同じ日に互いを思い浮かべ、手紙をしたためていたなんて!
予期せぬところでの偶然の一致。それはもう一つの贈り物のように感じられました。
2週間の旅を経て、我が家に届いたハガキ。
今頃私の手紙も彼女のもとに届いているかな?
仕事柄ご依頼いただいて言葉をしたためることも多々ありますが、今回の手紙のやりとりを通じて「書く」「受け取る」という行為の原始的な感覚を味わせてもらった気がします。
言葉は言葉以上に饒舌で、佇まいや手触りからそこにある空気さえも運んでくれる。
書いて届けるのにはタイミングというものがあって、最善の時に最善の形で、届くようにできている。
もしかしたらそれは手紙だけに言えることではなく、こんなふうにオンラインで綴る言葉にも言えることなのかもしれません。