MONOLOGUE

「ある」と「ない」の間で

春分の日も過ぎて、季節が陽へと転じていくのを感じています。

横浜は昨日今日と雨模様ですが、重さを感じない春の雨で、どこか冴え冴えとしたものを感じています。

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

先日、娘の幼稚園で「親子手品ショー」なるイベントがありまして、プロのマジシャンのパフォーマンスを見る機会に恵まれました。

コロナとともに始まった幼稚園生活でしたが、今年無事に卒園の運びとなり、園長先生のお取計で催されたものでした。

「この子達は、入園式もできなかったから。
 子どもたちと親御さんのために
 何か喜んでもらえることをやりたい」

とは言っても、私は「親子手品ショー」というタイトルからそんなに期待せずに出かけたんです。

というよりも・・・正直なところそんなに乗り気ではありませんでした。というのは、このところ心が揺れる出来事が相次ぎ、落ち着かない感覚があったからです。

長く関わってきた仕事のプロジェクト凍結が決まったり。別の案件でもチームの編成が大きく変わったり。

残念な気持ちや不安も重なり、とてもじゃないけれど楽しく手品をみようなんて思えなかったのです。

とはいえ、行かないのも娘が淋しがるだろうし、ひとまず顔だけでも出さねば・・・幼稚園の講堂で娘と並んで座り、手品が始まるのを待ちました。

「いつも心に花束を」

「楽しみだね」と嬉しそうに私を見上げる娘。

お友達と何やら囁き合ったり、手を繋いで楽しそうにしているのを見ると、ずいぶんと大人っぽくなったものだと思いました。

と同時に、上の空だった心がようやく「ここ」に戻ってきた感覚がありました。

今だけの彼女の表情。
何気ないやりとり。
このところそれを見逃していたかもしれないな。

そうか、キミは間もなく卒園するんだよね。

しばらくして、パフォーマンスが始まりました。

「手品ショー」という響きから、私はトラディッショナルな(子ども向けの)テーブルマジックを想像していたのですが、その内容は予想に反していました。

パントマイムとマジックを合わせたかのようなショーで、背景にはちゃんと物語があったのです。

3名のパフォーマーが演じるその演目は「いつも心に花束を」と題されていました。

「人は誰しも心の中に
 枯れない花を持っています」

というナレーションで幕はあがり、旅芸人夫婦の日常が物語として展開されていきます。

夫婦役の二人にセリフはありません。凝った舞台装置もありません。コミカルな音楽とパントマイムだけで見る人の中に物語を紡ぎ出していくのです。

冒頭のつかみのところでは、体のあちこちからお花が飛び出すパフォーマンスがありました。

手に持った布から
上着のポケットから
帽子の中から。

何もないところから次から次に花が飛び出して、やがて舞台に色とりどりの花畑ができました。握りしめた手をゆっくりと開くと、手のひらに小さな花が咲いている。手を握っては開き、その度に違う色のお花が現れる。

私はその演技に釘付けになりました。

3つの水晶玉を使った演技では、手のひらでクルクルと回転させたりジャグリングしたり、思いもよらぬ場所に移動させたり。

フープを使った演技では、7つほどのフープを2人で操りながら生物の進化の過程を表現していました。
(魚類から恐竜、最後に人になる、みたいな)

それらの演技のベースでは、ゆっくりと夫婦の旅の物語が紡がれ、見事な舞台を作り上げていました。


「ある」と思っているもの、は?

マジックって、

あるものを、ないように見せる。
ないものを、あるように見せる。

そういうものなのだな、と思いました。

タネや仕掛けが本当はあるはずなのに、ないものとして表現する。

魔法なんてないはずなのに、本当はあるんだよ、と言わんばかりの世界を見せる。

私は彼らのつくる世界にどんどん引き込まれていきました。

そして、ふと思ったのです。

私たちが普段当たり前に「ある」と思っているもの

たとえば、

権力とか
地位とか
名誉とか
お金とか
肩書とか

そういう「ある」と信じて疑わないものたちを、手にしたくて、あるいは失いたくなくて、人は不安になったり、悩んだり、苛立ったり、焦ったりしがちだけれど、それらは本当に「ある」のだろうか、と。

仮に一定の水準のそれらを手にしたとしても、それだけでは充足するとは限らない。

あれ?おかしいな?これを手にしたのに満たされないな。もっと、もっと、必要なのかな。なんてよく分からないままに「ある」を増幅させていくしかない。

どこまで行っても終わらない。どこまで行っても足りない。

「ある」は「ない」のです。きっと。

本当に「ある」もの、って?

ここまで考えたところで、本当に「ある」ものってなんだろう、と思い始めました。

うーん、と思案して出てきたのは、この「肉体」かな、って思ったんです。身体がここにあって、自分がここにいるということ。

これはまぎれもなく「ある」ですが、言うまでもなく奇跡みたいなものであって、どんなに苦しい環境であってもご先祖様が生きながらえて命をつないでくださった「事実の結晶」だよな、と思いました。

厳しい時代もあったと聞きます。

我が家は岩手県の農家の血なので、ときどき地域の伝承(冷夏や日照りとか、飢饉、土地の開墾)を幼い頃から耳にすることがありました。

そういう中でも懸命に命を繋いでもらったということは、そこにはご先祖様方の未来への確かな願いや祈り、愛があった、ということだと思うんです。

こういうものって一見して「ない」と思われるのでしょうけれど、この身体を通して確かに「ある」のですよね。

手品ショーを見終えた私は、とても晴れ晴れとしていました。

仕事での揺らぎ、その事実や状態は変わらないのにものの見方がぐるんと変わった、というのでしょうか。視点は俯瞰するようにぐーっとひいていって、同時に今ここに「ある」ものに心が着地したような感覚がありました。

一見してうまくいかないこと、残念だと感じることはこれからも起こるだろうけれど、そういうことが起こるのも、ひとつの機会点であり通過点なのだろうな、とも思いました。

うすうす自分の中でわかっていたじゃない?
違和感を是正できるタイミングかもよ?

手品というのは、もしかしたら世の縮図なのかもしれませんね。

パフォーマーは言うなれば「大いなる存在」の象徴で、こちらでちょっと手を動かすとあちらで何かが起こる。あちらにちょっと触れると、天地がひっくり返るような何かが起こる。

それもこれも皆を喜ばせるため、今よりよくなるために手を動かしてくださっている。

「人は誰しも心の中に
 枯れない花を持っています。

 元気のない人がいたら
 その花を分けてあげられるみんなでいてね」

そんなナレーションで「親子手品ショー」は終わりました。

そう、枯れない花を心に咲かせ、大切な人にいつでも手渡せる自分でありたい。

私もパフォーマーの3人から「心の花」をもらったのかもしれません。

おかげさまで、ようやく調いました。卒園・入学する娘を、笑顔で見守る春、になりそうです。

皆さんは、どんな春を過ごしていますか?