MONOLOGUE

「手紙」の向こうに見えたもの

本格的な秋の訪れを感じる今日この頃。

開け放った窓からは、カラリとした風が入り込んでくるようになりました。

時折運動会の練習をする子どもたちの声が一緒になって流れてきて、あぁ今年もこの季節がきたな、と頬が綻んでしまう私がいます。

実はこのところ、大切な方から手書きの「お手紙」をいただくことがたまたま重なっており、改めて「手紙」というかたちあるものがもっている独特の力を感じています。

ポストを開けた時に見慣れない封筒を見つけたとき、あるいは贈り物に添えられたお心遣いのお手紙を手にしたとき。

早く封を開けて読んでしまいたいような、いや読み切ってしまうのが惜しいような、そんな感覚になるのは私だけでしょうか。

とりわけ印象的だったのは、画家の友人が夏の終わりに送ってくださった残暑見舞いです。

丁寧に手書きされた上質な封筒を手にした時の胸の高鳴りといったら、なかなかに味わい深いもので、送り主の名前を見なくてもなんとなく彼女からだとわかった私は、はやる気持ちを抑え丁寧に封を切りました。

収められていたのは、丁寧に包まれた美しいひまわりの水彩画とメッセージカードでした。

盛夏の太陽というよりは、夏から秋に向かっていく柔らかな時の流れを感じるひまわりの姿は、思わず見入ってしまうほど。

彼女がこうしてお便りを送ってくださったのは初めてで、いわば「サプライズ」だったわけですが、お手紙の向こうで悪戯っぽく笑う姿が、目に浮かぶようでした。

「残りの夏も、楽しんで」

手書きの言葉は想像以上に書き手の心を映すものです。

とくに「手紙」となると、特定のお相手とのつながりを感じながらペンを走らせていきますから、そこには包み隠しようのない気持ちが乗るものなのでしょう。

大切な人を思うとき

私は日頃こうしてオンラインを通じて自分の胸の内を綴っているけれど、手で直接見える形にする、手書きっていいなと改めて思いました。

同時に、

本当に大切な人
ごく身近にいて私を支えてくれている人にこそ
飾らぬ気持ちを言葉にして届けていきたい。

自分の言葉をそんなふうに使いたい、
という気持ちも湧いてきました。

そうだ、手紙を書こう。

くだんの彼女へはお礼とともに、感じたことを率直に伝えました。

そして、一番つながり合っていたい人に向けて、私も筆を取ってみることにしました。

岩手花巻に住む家族と親戚に、写真を添えて手紙を送ることにしたのです。

父・母・祖母、そして叔父・叔母の顔を思い浮かべながらペンを走らせる時間は、とても穏やかで格別なひとときでした。

大切な人を思いながら、手渡す言葉を見つけにいく。それだけで不思議と私の中が整っていくのがわかりました。

手紙の先にいるお相手を想うときに、きっとあたたかな自己対話が生まれているから、なのかな。

ちょっとしたお礼状や季節の挨拶。

つい手軽に時間を優先して、電話やメールで済ましてしまいがちですが、葉書や手紙を上手に扱えるようになりたいものですね。

住所を知っている間柄って、最近では珍しいと思うんです。

旧知の仲、もしくは一定以上に親密な関係性。であるならば、お相手は身近なところにいる「大切な人」であることが多いはずなんですよね。

だとしたらなおのこと、

たまには「お手紙」
きっと喜んでいただけるんじゃないかな。